夢にみるもので双方が驚いた話

佐藤治夫


 シューベルトの歌曲集『冬の旅』11番「春の夢」後半に、次のような歌詞(独和)がある。

Ich traumte von Lieb' um Liebe,
Von einer schonen Maid,
Von Herzen und von Kussen,
Von Wonne und Seligkeit.


夢に出てきた相思相愛の
美しい乙女
二人の心 二人の口づけ
至福の時 幸せの時よ

自分で翻訳するときにも違和感があったのだが、歌って見ると更につらくなる。私には、「私が夢を見た」(ich traumte)が、目的語として Wonne (無上の喜び) Seligkeit (歓喜)を取ることが、高校生の時からの謎であった。目に見えないものを夢で「見た」という部分がオカシイ!という風に約40年ほど感じてきた。
昨年オーストリアでドイツ詩の朗読を教えていただいた先生に、もしかしたらSeligkeitに具象的なものを指す用法があるのかと思い、質問したが、質問の仕方が悪く、同席した日本人の歌手から、「それはね、幸せという意味よ」と、大変もっともな指摘をされてしまい、先生の方は何を言ってるんだかわからないわよ、のようなお顔になってしまい、ウヤムヤに。
今年は、足の手術をして、ウィーンで暮らしている英語も堪能な同じ先生を訪ね、一対一での質問セッションが実現して、やっと上記の質問を詳しく説明したところ、驚くべき(私にだけかも?)お答えが返ってくる。以下は、再現会話。


 「え?気持ちや感情を夢見ることはフツーじゃありませんこと?」
「えっ、えー、先生、私は画像を伴わない夢は見たことがないから理解できません。」
「私は終戦時に、侵入してきたソ連軍から、家族と一緒に逃げ回った夢を見るのだけれど、画像なんかなくて、コワかったという感情の思い出を夢に見るのよ。あたりまえじゃないの。佐藤先生は、そういう夢は見ないの?それとも日本人は、絵がついていない夢って知らないの?でも、日本で長いこと教えたけれど、そんなこと尋ねた人はいませんでしたけどね。」
「ええ、ですから、昨年からこれを伺いたかったのです。私にはシューベルトの歌詞が理解できないのです。」
「うーん。不思議だわね。」
「日本語では Traum sehen (see a dream)と表現するのです。ですから、見えないと夢じゃないんです。」
「ええーーーー!?知らなかったわ。」


 日本語では、夢を「見る」のだが、ドイツ語では(英語もそうだが)traumen,  dream一語なのに、日本語への翻訳という作業を通すと、そこがボヤけて来ることに、その場で双方とも気がつきました。日本でドイツ語を教えているときには、ich traumte は「私は夢を見ました」と「説明」すると学生が理解していたので、まったく気がつかなかった(まあ、こんな妙なこと気にする人は少ないだろう)ようです。
 ああ、どうか読者よ教えてくれたまえ。あなたは夢を「見る」?それとも「夢る」?絵の無い夢って見る?ドイツ語文化圏でも、そんなことを話題にしないようなので、興味を覚えた先生は早速周りの人に尋ねるそうである。上記の歌詞に違和感がないなら、あなたはドイツ語文化圏型、納得できなかった私は日本語文化圏型?でも、敬愛するその先生が仰るのだから、幸せだったときの気持ちを夢に見る点については、歌詞としてありうると納得したから、私はメデタシメデタシ。


英米文化学会会報91号より転載

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